最終ピッチを前に
最終ピッチ基部に到着したのは午前11時30分頃だった。
ここまで5人全員が大きなトラブルもなく登り切ったことに、まずは安堵した。眼前には最後のピッチがそびえ、その先には大同心の頂が待っている。
待機している間に、後続パーティーが登ってくる姿が見えた。また、南陵を登攀してきたパーティーも稜線に姿を現した。彼らは途中からルンゼへ下降していったが、その際、「1ピッチ目を登れているなら、この最終ピッチは問題なく登れると思いますよ。」と声を掛けてくれた。
私自身も岩の状態を観察し、これまでの登攀を振り返ると、技術的には十分に登攀可能であるという感触を持っていた。
しかし、私の頭の中にあったのは、自分が登れるかどうかではなかった。
ここまでの登攀で、新人のEさんは核心部で苦戦しながらも懸命に登ってきた。また、コールが伝わらず後続の動きが止まる場面もあり、パーティー全体としては予定以上に時間を要していた。
アルパインクライミングでは、リーダーの役目は先頭を登ることだけではない。全員を無事に下山させることこそ、最も重要な責任である。
Mさんが最終ピッチ基部へ到着したところで、これまでの状況を踏まえ、「今回はここまでにしよう」と相談した。
あと一ピッチ。
その一言が、どれほど重かったことか。
しかし、Kさんをはじめ全員が私の判断を受け入れてくれた。
迷いはあった。それでも、この決断がこの日の最善であると信じ、撤退を決めた。
下山
先行して下降したパーティーの踏み跡をたどり、ルンゼ下降点へ向かう。
50mロープ1ピッチでルンゼ下部へ下降し、その後は踏み跡をたどって大同心基部へ戻った。
午後0時40分頃、無事に登山道へ降り立つ。
岩壁を見上げると、あとわずか先に頂が見えていた。
悔しさがなかったと言えば嘘になる。
それでも、五人全員が笑顔で戻ってこられたことに、大きな安堵を覚えた。
赤岳鉱泉にて
テント場へ戻ると、まずは冷えたビールで乾杯した。
「お疲れさま。」
その一言だけで十分だった。
夕食は各自が持参した食料を囲み、Kさんが持ってきてくださったお酒をいただきながら、この日の登攀を振り返る。
「あそこは難しかったな。」
「あの支点は助かった。」
そんな会話が自然と弾み、笑い声の絶えない夜となった。
完登こそできなかったものの、誰一人として暗い表情を見せることはなかった。
全員が無事に戻れたことへの安心感が、何より大きかったのである。
翌日はゆっくりと下山した。
振り返れば、この三日間は私たちにとって実に内容の濃い、忘れることのできない山行となった。
考察
今回の大同心雲稜は、最終ピッチを残して撤退という結果に終わった。
登攀技術だけを見れば、私自身は最後まで登ることができたと思う。実際、他パーティーからも「ここまで来られれば最終ピッチは問題ない」という言葉をいただき、自分自身も同じ感触を持っていた。
しかし、アルパインクライミングは個人競技ではない。
パーティー全員が同じ目的を持ち、互いを信頼しながら、安全に下山するまでが一つの登攀である。
今回のメンバーは、新人を除けば全員が60歳を超え、最高齢は76歳であった。それでも、この年齢で大同心雲稜に挑戦し、最終ピッチ直下まで到達できたことは、日頃の鍛錬と経験の積み重ねがあってこその成果である。
昨年は悪天候で実施できず、この一年間、この山行を目標に技術と体力を磨いてきた。その集大成が今回の登攀だった。
もしかすると、私にとって大同心雲稜は最後の挑戦になるかもしれない。
年齢を重ねれば、長いアプローチを伴うアルパインルートは確実に厳しくなるだろう。
それでも、岩を登る喜びが消えることはない。
これからは、自分が登るだけでなく、後輩へ技術や経験を伝え、安全に山を楽しめる仲間を育てていくことも、私の大切な役割になっていくのだと思う。
今回の山行は完登こそ果たせなかった。
しかし、これまで積み重ねてきた努力は決して無駄ではなかった。そして何より、五人全員が笑顔で赤岳鉱泉へ戻り、無事に下山できたことが、この山行最大の成果である。
大同心の頂は、またそこにあり続ける。
今回、私たちは頂を目指すだけではなく、「引き返す勇気」という、アルパインクライミングで最も大切なものを、あらためて学ぶことができた三日間だった。